宝石のような風景の記憶

人生の財宝は、ある場合には金品や不動産等の物質的富だろう。別の場合には、名誉や賞などの評価だったりもするだろう。また別の場合には、知恵や叡智や友情や愛情だったりもするだろう。

そうしたものは、一般的に多くのケースで取り扱われている。人生の財宝とはこういうものだというように。無論、小説や映画の題材にも取り上げられることが多い。

そしてだいたいの場合、答えは決まっている。物質的なものではなく、非物質的なものの中に価値あるものを見いだせ、ということである。特に人生の最期が近付くと、人はそういう問いを自らに投げかけるようだ。

しかし、ときには、人間関係の宝物、愛情や友情といったようなものとは特に関係なく、人を強力につかまえてしまうような記憶や経験があったりする。

きのう、日の暮れた暗い谷間で私はそういうものを見た。

キャンピングカーで大井川沿いの県道を南下しているとき、対岸の真っ黒な山の麓を行く2両編成の大井川鐵道の電車の灯火を見たのだ。

辺りには人家などいっさいないところだった。電車の車窓に連なった淡い光は、谷の底の片隅を北上していた。

それだけのことだったが、まるでそれはジブリのアニメのワンシーンのように浮世離れした光景だった。神々の黄昏を行く電車のようだった。

キャンピングカーを運転しながら横目で見た一瞬の光景であって、もちろん画像に残すことも具体的な記録に残すこともできない。ただそういう映像が自分の記憶の中に残っただけだ。

そういう断片的な記憶が、人生のどこかのメモリの中に破片のように折り重なっているのかもしれない。それは宝石のようなものだが、売り買いすることも、インスタグラムで披露することもできず、ただ人に話して伝えるだけのことなのだ。

人生にはそういう奇妙な瞬間が訪れることがある。

大井川鐵道は、2022年秋の台風で大きな被害を受け、比較的最近まで全線の運休が続き、現在は金谷~家山区間だけで限定的に運転が再開されている。

私が見たような「夜の暗い谷底を行く電車」は、どんなに素晴らしい光景であったとしても、それだけで誰かに経済的恩恵を与えることにはならない。その意味でもプライスレスなのだが、同時に値千金でもある。一生忘れられないような記憶をもたらすのだ。

人間のやることは切ない。誰もこれが芸術だと思って鐵道事業をやるものなどいない。だがそれは、意図せざる芸術を暗い谷底に生み出してもいるのだ。あの一瞬の素晴らしさを私は誰かに伝えたかった。それだけのことなのである。

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